聖霊にお願い!!(ACIMと共に)

ACIM(奇跡のコース)をベースとした日々の気づきを綴ります。

夢の主人公

ワプニック博士のDecision makerをテーマとした講義を聴いていたのですが、さすが博士と膝を打った箇所がありました。

 

ざっくりコースが描く背景を書くと、

世界というかこの宇宙は全体としての心が見ている集合的な夢。

その中で心は分裂していて、別々の視点から夢を見ている。

寝ている時は夢見ているけど、起きて活動する「現実」も夢の一部。他人の行動には私の責任はない。けど、他人の行動や発言をどう解釈するかは私の責任。

だから本当は、この世界では本当は自分が見たいように見ている。

 

たとえば、

親にたまに勇気を振り絞って労りの言葉を掛けたら、シカトされた。めっちゃイライラする。

こんなに気を遣って話しかけたのに、私の話しなんて興味がない。

私の存在なんて認めるつもりがない。昔からそうだ。なんてひどい親だ。

 

つまり、自分は重要な存在ではなく、自分の話しは興味がないものと思ってます。

それを否認したので、投影されて、親がいかにも自分に

「お前は重要な存在ではなく、お前の話しは興味がない」と言ってくるような気がする。

私は私の夢の王様であり、私の思うとおりに他人を操り、他人に台詞を言わせる。

台詞の字面はどうでもよく、解釈によって自分の思うとおりに他人に言わせる。

 

「救いの秘密は『あなたは自分で自分にこれを行っている』ということだけである」(中央アート出版社刊 奇跡講座 T-27.VIII.10:1)

 

で、なんか講義で妙に腑に落ちたのは、

結局、「夢の主人公」は「私」なのですが、私たちに責任があるのは「どう見たいか?」ということであるというポイントでした。

私が夢の中で他人を自分の思うとおりに操り、ひそひそ声に「あいつは価値がない」と言わせ、自分の発言を遮る人がいたら「お前の話はどうでもよい」、道を譲らない歩行者には「お前こそがどくべき存在だ」と言わせている、意味を附しています。私がやっています。この台詞をどう言わせたい(解釈)かに責任があると言っていました。だから、他人も、イエスも、エゴも、聖霊もこの台詞の責任はなく、Decision makerとしてのあなたに責任がある。どう見たいかの責任がある。もし「価値がない」という台詞を言わせたい、見たいのならそれを選択すればよいし、罪のない自分はこれを選ばないとするなら、赦して手放して聖霊を選択すればよいということでした。自分が選択するかしないか。それだけ。

やっぱりすごいっすね。めちゃめちゃわかりやすいです。

 

ちなみに、私の労りの言葉を無視した親は、あえて無視したのではなく、単に耳が遠くて聞こえなかっただけ。そんなもんです^^