知覚は作られる
私たちは基本的に外部の刺激に応じて、知覚が発生すると信じています。
なので、嫌なことがあればそれは外部の状況を変化させることで対応しようとします。
例えば、配置転換で上司が嫌な奴になった。
「上司が嫌な奴」だから、「嫌い」、「怒り」、「うんざり」などの知覚が生まれる。
すると、対策は我慢する、極力関わらないようにする、最悪会社を辞める、(強硬手段に出て)上司を変える(笑)などになると思います。
この知覚はすごくリアルなので、状況によって知覚が作られるということには疑問を差し挟む余地がまったくありません。
しかし、本当でしょうか?
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ここにコンビニで万引きをしようとしている少年がいます。
彼は万引きは悪いことだという自覚がありますが、これまでの数回の経験からこのお店ではばれることはないとわかっています。初めの数回こそ良心の呵責がありましたが、段々と何も感じなくなっています。
今も店内に一人しかいない店員がドリンクコーナーでジュースの補充をしています。完全に死角にいます。
鋭い目つきで辺りをうかがいながら、お菓子の棚の前に座り、息を潜め、目的のお菓子に手を伸ばします。
時を同じくして、運悪く眼鏡を自宅に忘れて出てきたサラリーマンが同じコンビニに入ってきました。眼鏡を取りに自宅に戻るすがら、暑いので水を買うつもりです。裸眼の視力は0.01なので、1m先も見えません。この視力では周囲はぼんやり見えているだけで、商品を手に取っても顔の前に近づけないと見えないほどです。彼は自動ドアをくぐり、飲み物売り場に向かう途中、駄菓子コーナーにさしかかりました。
少年が目的のお菓子を手に取り、シャツの下に忍ばせた、その決定的な瞬間、眉間に皺を寄せたサラリーマンと目が合いました。。
どうしてよいのかわかりません。ギクッとした緊張感と共に体は固まり、身動きできません。心拍数があがり、汗が吹き上げ、自分が小さくなる感覚と共に、血の気が引いていきます。
サラリーマンの顔が鬼に見えてきます。「何やってんだ」「犯罪だぞ」「人として最低だ」鬼の形相は無言のうちにあたかもそう言ってきそうです。
思考がぐるぐる回って仕方ありません。「ヤバい」「ばれた」「どうしよう」「お店の人に報告されるかも」「親と先生にも連絡がいくのかな」
その時、サラリーマンはしゃがんでいる少年が何をしているかはまったくわかりません。男の子か女の子かもわからないし、単に人がしゃがんでいるのがおぼろげながら把握できるだけです。人がいることに気づいたので、1、2秒見たのち、「ぶつからなくてよかった」と思い、避けて店員がいるドリンクコーナーに向かいます。
少年は自分の心臓が破裂するかのような思いです。「店員に報告するつもりだ!」「もう絶対絶命だ!」体は固まり、完全に恐怖で支配されてます。
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と、他人の事だとわかりやすいですね。少年の知覚はサラリーマンや店員が原因で作られたのではありません。少年が「万引きは悪いこと」と信じ(信念)、でも気にしない(否認)ことにしたので、サラリーマンが(投影)鬼の形相に見え、悪を指摘してくるように感じます(知覚)。
本当の問題はサラリーマンではなく、少年の信念です。自分の信念が知覚を作っているのです。自分が信じた通りに知覚をします。
否認したことは投影されるので、自分が否定したことは他人の口を通して語られます。つまり、サラリーマンの口を通じて自分が言わせているのです。
少年が万引きを悪いことだと信じている度合いが増すにつれて、サラリーマンが少し強面のサラリーマン、さらには鬼に見えてきます。
心はすごいパワーがあるので、知覚が作れるのです。
この自分が知覚を作っていることを忘れると、他人がパワーを持ち、それに引きずり回される自分という地獄の構図ができます。状況が自分に不利に展開しないように願うことしかできません。そうではなく、自分の心がパワーを持っているのです。それが否定的に使われているだけです。
別の例だと、遅刻が絶対に悪いことだと思っている。電車の遅延で遅刻する。扉を開けた瞬間、上司や同僚が非難の目を向けてくるように感じる。いつもと違うそらぞらしい態度だ。
そうではなく、自分が遅刻を悪だと信じて、「遅刻するなんて絶対だめ」と否認したから、投影され、上司や同僚が非難してくるように感じるという知覚が作られるのです。
私たちの問題は本当は状況ではなく、何を信じているかです。
それを見つけ、自分の問題、知覚を作っているのは自分だと気づくことから始まります。
なので、悪夢から覚めるには自分が夢の作者だと知ることですね。
「癒しは、患者が自分の歌っている葬送歌を聞き始め、その妥当性を疑うようになるときに生じる。それを聞くまでは、それを自分に向かって歌っているのは自分自身だということを、彼は理解できない。それを聞くことが、回復の第一歩である。その次に、それを疑うことが彼の選択とならなければならない。」(奇跡講座 下巻 中央アート出版社刊 P.II.VI.1.5-8)