ランプを持つ人
投影はわかり始めると簡単で、要は私が望んだ台詞を他人の口から喋らせているというだけです。(原理はsimple、気づくことはまた別です)
ただ、無意識に沈みすぎて本当は自分の言いたい台詞と思えないので、わかりにくい。
例えば、自分は劣っているという信念があり、抑圧すると、他人が勝手に喋ります。
実際に口に出すわけではありません。でも、態度や口調、陰口、目くばせ、空気などで、あたかも言ってくるように思えます。
「抑圧すると」と書いてますが、抑圧しまくっているが故に生まれてきているので、私たちが知っている「現実」の世界はすべて投影、それが自動的に展開されているという感じです。(だから、私たちの思考は全然一貫してません。分裂した心が生む様々な思考がやってきて、あっちへふらふら、こっちへふらふら)
ただ、このイヤな信念は本当は私のsecret wishです。本当は私こそが自分は劣っていると思いたいのです。そして、なくしたいとつぶやくのは、顕在意識です。
なぜなら、劣っている=無垢な被害者であり、罪のある他者を作り、怒りたいからです。投影は否定であり、すなわち怒りです。投影しておいて、怒りがないということはあり得ません。だから、無意識ではこれを望んでいます。(何人も私以外に私の心に影響を与えることはできません。私自身が望んだこと以外実現していません)
これがsecret wishの目的です。
でも、コースが言うとおり本当の恐怖はこの下にあり、もしも罪が見られてそこに何も存在しなかったらどうなるか?これが最悪の問いです。
何もなかったら、個の私は存在できないのです。
罪を投影し、怒り、自他の区別をつけられれば、個の私は存在できます。ですが、もし罪がなかったら、、、「私」はないのです。他者への怒りがなければどうやって個を維持できるか。
今や、罪より「私」がなくなる方が恐怖です。
なので、私たちは罪に惹かれるのです。
潜在意識では私が弱い体を持ち、弱い心で生きたいのです。そうすれば、罪を他人に投影して、温存することで、個の私を保存できるから。
なので、コースには平安への障害が書かれており、罪に惹かれることに気づきなさいと言われます。
言い方を変えて繰り返すと、自分への呪い、葬送歌を歌っているのは自分自身であり、それを隠して、他人に投影します。すると、他人が自分へ攻撃してくるように知覚します。次に、その攻撃を防御することによって、自分が歌っている呪い(罪)に気づくことなく保存します。個の自分を守るため、罪を保存するため。今や罪を手放すことは、自分がなくなることを意味するので恐怖です。そうして、罪にかじりついて惨めな王国の国王の座を譲らないでいる。罪の宮殿を守り、Reality(実相)をねじ曲げているのは、私自身の意志。
つまり、心の底では私は罪に執着し、神の愛や聖霊を拒んでいるのです。自分がいなくなるから。
だから、素直に神の愛が恐いとイエスに言い、一緒に見て欲しいと助けを求めればよい。
私たちが隠したsecret sinの暗闇を見ようと決意すると、そこにはいつもランプを持った人が待っていてくれます。そして、闇の中を歩く私たちを先導してくれます。私はもはやそれを疑うことができません。This course works so well.