聖霊にお願い!!(ACIMと共に)

ACIM(奇跡のコース)をベースとした日々の気づきを綴ります。

助けなければならない人

癒しをやり始めて、始めのうちは自分より恐い、強い人がいて、それが恐怖を与えてくる気がするので、そこを癒やすということをしていました。

 

しばらく経って片手落ちなことに気づきました(Special love relationshipのパターンが見れてない)。

自分より弱い人、価値がない人、助けなければならない人など、そういう人の存在です。世の中には可哀想な人がいて、助けなければならない。カウンセリングをして、心の仕組みを通して、助けたい。もちろん、助けてと言ってきた人がいたとしたらやればよい。でも、大体は自分の投影です。想念によって、弱い人が自動的に作られ、それがリアルに思えるだけです。

 

「そうした対象を自我は選び出し、それとつながる。そして自分を強めるためでなければ、決してつながることをしない。自我は自分に理解できると思うものと一体感をもち、そこに自分自身を見て、自分と同質なものを共有することにより、自分を増大させようとする。この策略を見誤ってはならない。自我は常に弱めるために共感するのである。そして弱めるとは常に、攻撃することである。共感するということが何を意味するのか、あなたは知らない。だが、次のことについては確信してよい。あなたがただじっと静観し、聖霊があなたを通して関わるに任せるなら、あなたは強さに共感することになり、弱さではなく強さを増すことになる。」(中央アート出版社刊 奇跡講座T-16.I.2:2-7)

 

エゴを選択している私たちは密かに弱いと思う人に共感をすることにより、自分の弱さを強化しています。人の話には「うん、うん」と強く頷く、同意してあげなくちゃ。それが普通、良い人。

それは、他人の同意を得られないといけない自分の弱さを投影して見ているのかもしれない。本当の相手は強いかもしれない。でも、人の心は何もわからない。わかりようがない。でも、密かに禁じている自分の弱さを投影して見ていると、共感により弱い自分を強めることをしてしまう。

本当は他人の同意が得られないといけない自身のなさ、不安をただ強化することになるだけ。同意しない人への恐怖と怒りは温存されたまま。よーく見ると、本当は自分が弱くなることを選択し、強い他人に憤慨することを選んでいることに気づきます。

 

孤独であることを禁じていると、一人でいる人がすごく可哀想に思えます。それを助けられないと、申し訳ない気持ちになります。でも、それは一人でいる人に自分がつけたレッテルであり、ここに「一人で可哀想な人」は実在していません。

 

社会には弱い人、強い人が実在して、その中で自分の順位、立場が決まる。だから、価値を上げないといけない。そういう映像がスクリーンに映りますが、映像の光源は自分の想念だけのようです。