ディオゲネスとアレキサンダー大王
OSHOの本で読んだのだと思いますが、
アレキサンダー大王が裸で樽の中で暮らすディオゲネスに会ったとき、
「なぜあなたはそんなに堂々としているのか?」と聞くと、
「教えてあげよう。今から私といなさい」と答えたそうです。
しかし、大王はもう一国落としたら世界を支配できるから、その後に来ると返答しました。結局、次の国で王は死に、ディオゲネスの教えを聞くことはできなかったという話しです。
エゴの、つまり私たちの本当の恐怖は存在していないことがばれることであり、
だからこそ
無視される、否定される、批判される、思ったとおりにいかない、間違いを犯した、ほしいものが手に入れられない
などがあると、他者や状況に対して猛烈に怒ります。
なぜなら、私は本当は存在していないという思いにうすうす気づいており、それが刺激されるのだと思います。
だから、
ただの無視ではなく、全存在を否定されること
ただの批判ではなく、全存在を否定されること
ただのミスではなく、全存在を否定されること
になるからです。なので、事実よりはるかに拡大解釈され、猛烈に攻撃されるべき対象となります。
ないはずの私の存在を認めてくれる人が、いい人、Special love relationship。
ないはずの私を「ない」と言ってくる人が、イヤなやつ、Special hate relationship。
と、簡単に分類できるかもしれません。
無視したやつはひどいやつ、無視された私をなぐさめてくる人は良い人です。
私を大事にしなかった両親は、いつまでもひどい人であり、その怒りの思い出を私はいつまでも大事に保存しています。絶対に手放したくない。
個としての自分は実在していないという思いは深く抑圧され、投影されまくっています。
大王は世界を手に入れても満足できないと言い、
ディオゲネスは世界を手に入れても幽霊を実在させることはできないことがわかっている人と言えるかもしれません。
エゴを信じることで、Realityを捻じ曲げているのは本当はdecision makerとしての私であり、それも見たくないから世界があり、他者と状況が加害者になり、自分は無力な被害者だと信じ込むというのが、密かにしている選択なようです。