聖霊にお願い!!(ACIMと共に)

ACIM(奇跡のコース)をベースとした日々の気づきを綴ります。

聖霊に導かれる「私」

セラピーやら心理学を学びだすと、本当の問題は外界になく、私の心の中にあるとわかります。そして、「私」の心を、「私」のトラウマを、「私」の前世の傷を、幼少期に両親から受けた傷を、いじめられた経験を癒やせば、「私」は変わることができる、癒やされる、となります。そして、せっせとカウンセリングに通い、傷を癒やし、「私」を改善させる、向上させる作業に取り組みます。すると、「私」の天職が見つかり、ソウルメイトが現れ、たまたま電車内で目にした広告に本当の「私」に向かわせるスペシャルなメッセージが見つかるようになる、突然成功が舞い込んでくるようになる、などなどとなります。

 

そして、コースに出会うと、この枠組みで理解しようとしてしまいます。つまり、コースを通して、「私」がよくなることを期待する。聖霊がいろいろな人との出会いを通して、「私」をキリストにしてくれる、とか。

 

しかし、それはトリックです。コースがやろうとするのは、問題は「私」ではなく心としてのあなたが「私」=エゴに無意識に同一化していることが真の問題だと気づかせ、選択をし直すようにすること。肉体としての「私」、心理学的な「私」(かくかくしかじかの人生を歩んできた心、人とは異なる独自の性格の「私」)をいくら追い求めてもそれは偶像であり、最終的に死が待っているだけだよ。いくらキレイになっても、健康でムキムキになっても、ピカピカの心を持った私になっても(なれないけどw)、いくらお金がいっぱいあっても、その個としての分離した私は最後に死ぬだけと説かれます。だから、意味がない。時間を節約しなさいと言われます。

 

そもそもエゴは自分に関心を向けられるのが大好きです。心の底で薄々自分は存在しない、存在してはいけないと信じているので、それを埋めるもの、人、言葉が大好きです。逆にそれをもらえないと、自分の罪に直面することになるので、殺したくなるほど怒ります。なので、カウンセリングなど「私」にめちゃ関心を払ってくれたり、自己分析のようなことは大好物です。最悪なのは、無関心。

 

コースは逆で赦すということをしなさいと。赦す=lookingなので、この世界とは、あなたが選択して同一化している「私」=エゴとはどんなものか、ということの詳細が描かれます。それをジャッジしないで見なさいと。善良な「私」が世界(社会)に翻弄され、いつもひどいやつが現れて、被害を受けて仕方がなく怒る。そう思っている「私」の本当の姿を見なさいと。決して良くしようとは言いません。なので、重要なポイントですが、「私」の改善は目指していない。エゴは100%殺人の思考体系であり、聖霊は100%愛の思考体系なので、選択するだけ。単に見るだけ。改善しようとすることはエゴにエネルギーを注ぐことになるので、問題を現実にし、深刻にする方向になります。逆にlooking、赦し。すると、赦している「本当の私」はこの時間と空間にはおらず、分離がなく、キリストとしての私は一つであることに気づきます。「私」も時間も空間も、本当の私が信じていることによって、本当の私の信念によって、成立している。なので、今も分離は起きていない、そういう夢を見ているだけということがなんとなくわかってくる感じがあります。

 

と、書いてもコースの教えは知的に理解するのにも時間がかかるし、すぐに忘れます(無意識の抵抗でw)。なので、短期的にやるものではなく、一生をかけて繰り返し繰り返し学ぶことが必要なようです。そもそも急に罪悪感に直面すると、死にたくなりますwそして、こう書いていても、しばらく経つと、理解の次元がもっと深まり、あの時はまだよちよち歩きだったなー(今も自覚がありますがw)と、毎度振り返ることになりますw

コースについて その4

まとめると、世界や肉体、「現実」には問題がなく、本当の原因は心にある。でも、心がどこにあるのかわからない。知るためには、同一化しているエゴの思考体系を聖霊と一緒に理解していかなければならない。(これがまったく苦痛^^;)理解すれば、マインドに立ち返り、その次元で聖霊に選択を変えられる。愛を選択するのではなく、抵抗を聖霊と見る、となると思います。と、今も兄弟はひとつであり、神からも離れていないということが少しずつわかってくる。私がエゴを選択すると、世界がエゴがリアルになる。兄弟の夢ではなく、兄弟自身と結びつくには聖霊を選択し、今もonenessであることを思い出すこと。そのプロセスが、奇跡であり、赦しである、と。

聖霊やイエスを世界や肉体のほうへ引き込むのではなく、私たちの思考を聖霊に差しだしてランプに照らしてもらわないといけない。

 

以上、これまでの理解を拙い言葉でまとめましたが、少しでも来てくださった皆様のお役に立てれば幸いです^^

コースについて その3

繰り返しますが、こんな悪いことを考えちゃだめだ。愛のある考えを選択しないと、ではないです。最悪なことはエゴと戦うことです。もっと苦しくなります。判断は「私」ではなく、聖霊の仕事です。beyondが大事であり、戦場を超えたところから見ることが大事です。それには、テキストを読んで理解しながら、聖霊と実地にエゴを見ることです。私が本当にこの狂気の思考体系を信じていることを。私はまともで正しい、あいつはおかしいと、毎日やってますが、そう言っている私は本当にまともでしょうか?

博士はthe web of specialnessの冒頭で、the laws of chaosとthe web of specialnessが幾多ある講義のなかの父と母と言っていたと思います。ここら辺を読むのはやはり苦痛が伴います。エゴの抵抗が激しいので。神やイエスを愛しているなんて嘘っぱちで、本当は毎日誰かを(思考のなかで)攻撃しては血祭りにあげ、自らも苦しんでいれば報われると思っている私は本当は愛の神など信じておらず、贖罪のために生血と犠牲を求めるエゴという神を信じているでのはないか?それは本当にマトモなことなのか。

見ると、自分を自分でジャッジして、攻撃しようとしてしまいます。自分が自分のことを神の子とは思っておらず、I am home of evil, darkness and sin.と思っているから。それを本当は見られたくないから。そのlookingを聖霊と一緒にやることが大事です。そうしないと、本当に苦しくなります。きついですw

 

聖霊と見ていくと、次第にエゴという被害者のふりをしつつ攻撃する存在をマインドで選択している自分に気づきます。一方であなたに罪はなく、今も神から離れていないという神の記憶=聖霊がいます。聖霊と一緒にエゴを選択している私を見ることで、不思議なことに段々とシフトしていくようです。

今も神から離れておらず、兄弟とひとつなのですが、私を攻撃してくる「あいつ」や差し迫った金銭問題のせいでエゴを選択しているのは私です。他人じゃないのです!私がエゴにパワーを与えています。エゴを選択すると、肉体が実在し、リアルに感じるようになります。しかし、聖霊と一緒に見ることをしていると、ある瞬間に肉体のウソっぽさ、これが夢だという認識が訪れます。夜見る夢では目を閉じているのにリアルな映像を見ます。ということは、目は見ていません。同じように、朝も昼も本当は夢を見ています。目という器官は見てないのですね(びっくり)。結局、心が見ている。「人生」が夢であることが薄々わかってくると、出世や権力、自己実現などがまた達成できないゴールであることも段々と腑に落ちます。そこに解はありません。(つづく)

コースについて その2

ちなみに、コースは愛を目指しておらず、愛の障壁を取り除くことを目的にしていると書いています。つまり、いつも悪態をついている親に対して、愛を持った心に変えて、今日は笑顔でよいことをしようということではありません^^それをすると、苦しくなると思います。行動は結果の次元であり、思考が原因の次元です。結果の次元で対処しても根本的な改善になりません。逆に思考が変われば、勝手に愛のある行動になるはずです。

 

もとい、マインドって何どこにあるの?ということになりますが、本当は私たちはマインドを意図的に忘れているのです。マインドがわからないから、お金が得られて、みんなの注目を浴びて、セックスが十分にできて、健康であれば幸せになれるに違いない!なーんていう世界にどっぷり浸かって生きています。(もちろん、最後に肉体が死ぬことは意識から締め出して)巨万の富なんて言いません。私にこのささやかな幸せをください、聖霊!!とか平気でやりますw。しかし、それは結果の次元であり、投影先であり、洞窟に映った影です。映像の登場人物を見ながら、これの癌を治して!そしたら私は幸せになれると言ったら、それを満たしてあげるのが愛でしょうか。仮面ライダーを見ている子供がショッカーに襲われた人を見て、「あの人を早く助けてよ!」と言ったとしても、助けません。それよりそれはTVだよと言ってあげます。だから、私たちのエゴ的な願いも華麗にスルーして本当の原因を教えてくれるのが愛なはずです。なので、聖霊は答えてくれないでしょう^^

 

本当の問題は分離を選択したマインドにあります。だから、いかにたまたま会社のイヤな上司が出向になっても、それは結果の次元であり、映像が変わっただけです。すぐに私たちは別のイヤなやつを見つけます。朝起きて、周りに見当たらなかったら、記憶からイヤなやつ、イヤな思い出を引っ張り出して、非難します。エゴを選択している心がイヤなやつをでっちあげるのです。 問題はエゴを選択していることだけです。それに気づかず、映像を変えれば問題が解決すると思っているのです。だから、まず気づき、聖霊と見なければなりません。そうしない限り、次のイヤなやつを他でもない「私」が見つけます。エゴの贖罪とは罪のある自分よりもっと罪深い人を見つけて攻撃しなければならないというものだから。ということで、いくらTVの中の人を助けても変わりません。イヤな上司を変えても変わりません。原因を変えなければ。原因があるのはマインドです。マインドの誤った選択です。マインドはどこか?

 

どうやって見つけるのでしょう?

コースの「幸せな学習者」には学べば給料が上がって幸せになるよ、なんて書いてません。何て書いてあるか?「ひたすら不幸に献身しているあなたは、まず最初に、自分が惨めであり、幸せではないと認識しなければならない。」(中央アート出版 奇跡講座 上巻 P.333)と書いています。だから、まずいかに自分が「惨め」かを「見なさい」ということです。そこで、コースは繰り返しエゴの思考体系を暴いていきます。繰り返し、段々とストレートな言い方で。私たちはまずその惨めさを認識しないといけないのです。そうしないと、自分がエゴを選択していることがわからないのです。だから、エゴの思考体系を理解することがとにかく重要です。この問題を解決しよう(上司を変えれば幸せになる)と見せて、直前でゴールを変える(別のイヤなやつを作る)エゴという思考体系を完全に信じていることに気づかないといけません。(つづく)

コースについて その1

ブログを放置してしまっていますが、意外とちょこちょこアクセスしてくださる方がいて、ありがたいです。

 

私もコースの理解が浅い段階から書き始めているので(今もですがw)、かなり他の教えや知識と混ぜて書いてしまっているところがあり、一度訂正したいと思っていました。基本的に博士の解説が大好きで、それをベースにコースの理解を深めているつもりです。

 

「奇跡のコース」という名前で私たちが勘違いするのは、コースを学ぶと聖霊を通して悩んでいる人間関係や環境が変わるかも!ということです。奇跡が起きて、癌が治った。嫌いな人と仲直りできた。良い仕事に就けたなどなど。そして、それを聖霊にお願いすれば、叶えてくれる云々。

 

このコースの言う「奇跡」の定義は私たちの理解している意味とは違うのです。奇跡というのは、問題は世界や肉体ではなく、心にある。そこで教師をエゴから聖霊に変えるというdecision makerとしてのパワーを思い出すことを指しています。(エゴというのは、個としての「私」を指しており、つまり普段私たちが鏡で見て、「私」と思っているこの「私」です。)

 

ただ、この心=マインドというのもまた私たちが知っている心ではありません。一般的な心と読むと、では親との関係で構築されたトラウマを癒せば、過去生で受けた傷を癒せば、、、、などと言いたくなりますが、コースの説くマインドは、そういう私たちが今まで学んできた心ではありません。博士は肉体と心を混同することをlevel confusionと言っています。bodyは結果であり、mindが原因である。両者は別。結果のbodyを治すのではなく、原因のmindに対処するのだとbodyとmindを区別して説明しますが、この過去を持った「私」の心はpychological bodyとも言っています。なので、エゴとしての肉体と「心」は両方ともbodyであり、結果の次元なのです。結果を直しても変わりません。ということで、コースが説く心というのは私たちは知らないのです。それを心と霊と体のバランスを取るようなスピリチュアルな教えの延長で解釈しようとすると、ますますトラップにはまります。コースはそういう教えとはまったく違うことを説いています。(つづく)

罪の投影

段々とコースの内容が腑に落ちてきました。

コースが書いている通り、深い部分で抑圧されているのはエゴという本当は実在していない観念とともに、I am a murder.つまり私は罪を犯したものだという観念のようです。

私は罪を犯した(神を殺した)者だというビリーフがあり、それが深く抑圧されています。すると、投影されるので罪を犯したら罰を受けるのが当然です。道行く人が、同僚が、両親が、他人が攻撃してくるように思えます。この罪を信じ、さらに深く抑圧していることが原因で、投影されて攻撃されるように思うので、ずーっと恐怖感があります。でも、実際には誰も攻撃してきません。でも、夜道を歩いたり、暗闇に入るだけで、何かされそうな気がします。

だから、いくらセラピーなどでこのレベルの恐怖を解消しようとしても、難しいと思います。なぜなら、原因はまだ見られていない「私こそが罪を犯したものだ」という思いだからです。これが見られないと、投影が緩んでいきません。だから、イエスが「原因と結果」で言っている通り、恐怖から解放してと頼んでも無理だよ。それより、あなたがそれを作っていることを、つまり罪を信じていることをわからせるようにするという言葉の通りだと思います。そこまでいけば、なんだ自分で作っているんかい!とわかります。

しかし、この罪というのはどうやって解消したらいいのか、まったくわかりません。なので、やはりここが聖霊に助けを求める地点だと思います。

ディオゲネスとアレキサンダー大王

OSHOの本で読んだのだと思いますが、

アレキサンダー大王が裸で樽の中で暮らすディオゲネスに会ったとき、

「なぜあなたはそんなに堂々としているのか?」と聞くと、

「教えてあげよう。今から私といなさい」と答えたそうです。

しかし、大王はもう一国落としたら世界を支配できるから、その後に来ると返答しました。結局、次の国で王は死に、ディオゲネスの教えを聞くことはできなかったという話しです。

 

エゴの、つまり私たちの本当の恐怖は存在していないことがばれることであり、

だからこそ

無視される、否定される、批判される、思ったとおりにいかない、間違いを犯した、ほしいものが手に入れられない

などがあると、他者や状況に対して猛烈に怒ります。

なぜなら、私は本当は存在していないという思いにうすうす気づいており、それが刺激されるのだと思います。

 

だから、

ただの無視ではなく、全存在を否定されること

ただの批判ではなく、全存在を否定されること

ただのミスではなく、全存在を否定されること

になるからです。なので、事実よりはるかに拡大解釈され、猛烈に攻撃されるべき対象となります。

ないはずの私の存在を認めてくれる人が、いい人、Special love relationship。

ないはずの私を「ない」と言ってくる人が、イヤなやつ、Special hate relationship。

と、簡単に分類できるかもしれません。

 

無視したやつはひどいやつ、無視された私をなぐさめてくる人は良い人です。

私を大事にしなかった両親は、いつまでもひどい人であり、その怒りの思い出を私はいつまでも大事に保存しています。絶対に手放したくない。

個としての自分は実在していないという思いは深く抑圧され、投影されまくっています。

 

大王は世界を手に入れても満足できないと言い、

ディオゲネスは世界を手に入れても幽霊を実在させることはできないことがわかっている人と言えるかもしれません。

 

エゴを信じることで、Realityを捻じ曲げているのは本当はdecision makerとしての私であり、それも見たくないから世界があり、他者と状況が加害者になり、自分は無力な被害者だと信じ込むというのが、密かにしている選択なようです。