癒やされたいけど、癒やされたくない私
問題がある時、私たちは他者や状況に問題があるように思えます。
それは投影で知覚が作られているためであり、本当は自分の信念が作っています。
じゃあ、信念をさくっと見つけて、回収しちゃえばいいじゃん!と思うのですが、そうは問屋が卸さないのですね。
例えば、親に雑に扱われると思う時(知覚)、
それは親に投影しているからで、探していくと、
例えば自分で「雑に扱われる」=「重要じゃない」のような自己概念を持っているかもしれません。
整理すると、
自分自身で自分が「重要じゃない」と信じた(信念)
けど、これは意識に留めているのが厳しいので、ないことにした(否認)
だから、両親が(投影)
雑に扱ってくるように思える(知覚)
本当は自分でやっていることなのですが、これを受け入れたくない、見たくないのです。
というのは今までは状況、運命の被害者としての自分でいたのが、
自分が卑小な自己概念を作り、それを投影して、攻撃してきたとなるからです。
もし、自分が被害者であれば攻撃は正当化されます。
しかし、自分が加害者であるとなれば。。。
この被害者→責任の主体とアイデンティティーが移行するのが嫌なのです。
だから、無意識で本当は問題の原因を見つけることに抵抗しています。
ACIMで言うと、兄弟への攻撃は本当は神を攻撃してしまったという罪悪感を想起することになるので、闇に葬っておきたいです。夢から醒めたくないです。
でも、本当の私たちは無垢です。赦せない罪はなく、訂正が必要な間違いがあるだけです。
だから、自分に原因があることを認めて、赦せばよい。
また同時に、暗闇に隠していたい、隠している自己概念を出したくない自分を赦すことも大事ですね。エゴは光が当たらないことで守られているので。「あー、本当は自分が夢の原因、自分が攻撃した側と認識したくないって思っているわ。癒やされたくないんだわ。その自分を赦そう」と。
一つ一つ光を当てていけば、段々と抵抗がなくなってくると思います。