罪悪感の投影
うちには子供が3人いるのですが、リビング中に広がる散らかしたおもちゃ。
ぶっちゃけ片付けるのがイヤです。
観察していると、「自分でやりなよ。なんで、片付けもできないの。ここまでめちゃめちゃにするかね」とイライラしながら心の中でつぶいてました。
あー、めんどくさーい。やだー。でも、やらないといけないからやる。
このとき感じているエネルギーはすごく重いのです。
おもちゃじゃなく、鉄の塊でも動かそうとしているような重さ。
片付けってこんなに大変だったっけ?
そんなはずはなく、なんで重いかと言うと、それは罪が投影されているのですね。
ACIMでは私たちは罪を投影するためにこの世界を作ったと言われます。
そして、この世界のなかでも罪の押し付け合いをしています。
例えば、会社で大事なものを管理する戸棚の鍵が見つからない。
誰々がきちんと戻さなかったから。
いや、そもそもそういう仕組みを作ってなかったのが悪い。
戻さないのっていつもあの人でしょ。
ここでも犯人探しが行われます。
そして、罪の原因が自分に来ないように、他人にいくようにと戦々恐々としています。
犯人になると無意識にある罪悪感を上書きされるので、きついのです。
罪からはなるべく遠ざかりたい。
だから、犯人となってしまった人には近づかず、しばらくの間話さないようにするかもしれません。
いじめも同じ構造。罪を相手にかぶせて、無視して遠ざける。社会的なバッシングも同じ。
この普段、無意識にある罪悪感というのが最悪にイヤなんですよね。私たち。これだけは見たくない。
で、これに触れるような行動はすごく大変に感じます。
わたしにとって、片付けてない子供のおもちゃは罪の象徴でした(笑)
罪に近づかないといけないので、(嫌いな人と話す時の気乗りのしなさと同じく)イヤイヤすることになり、とても疲れます。
さらにもう少しよく見ると、
(自分が無意識で信じている)罪→投影され「罪のある子供」という錯覚→「片付けさせられて、怒りを感じさせられている私」という知覚
というセットになっていて、
罪を信じるエゴが自分に罰を与えようとしている構造です。
この片付けさせられる、他人のせいで怒りを感じさせられているという知覚は完全に自分で選択しています。
エゴを選択している限り、このループからは逃れられないので、赦しをして聖霊に委ねることをしています。
赦しができてしまえば、親に気兼ねなく遊んで、甘えてくれている証拠に映るかもしれません。
家族は重要な学びの場ですね。毎日いろいろあります^^