罪悪感の投影(その2)
ちなみに、罪があって、それを他人に投影したいというのは、私たちみんなが心の中に持つ仕組みですね。
ただし、このエゴと言われる部分は本当の私たちではないんですよね。でも、ぼーっとしているといつの間にか巻き込まれてます(笑)本当のわたしたちは無垢。無垢なわたしたちが自分は罪がある信じてしまったことが問題で、罪ではなく単なる間違いを赦していけばよい。
「批判や恐れなしにエゴを見つめなさい。現実ではないのだから恐れるのじゃなく赦すべき対象だよ。他者と同じくきみ自身を赦すために、きみが心のなかで人々を利用し、抹殺するようすを見つめることだ。それはほんとうのきみじゃない。無意識が自分だと思っているシステムの一部だ。」(神の使者)
なので、単に観察して赦せばよい。
また、子供に罪を投影する自分はダメだ、子供に怒る自分はダメだではない。
全然ダメじゃないのです。これだと、ダメ=罪になっていて、「怒る自分」がないことにされています。罪悪感が見られておらず、罪が赦されてないので、エゴも解体されない。だから、怒らない時はOK、怒る時はNGの振り幅が大きくなるだけ。たぶん凹む度合いも段々大きくなっていくと思います。
怒ったのは単なる間違いだったし、それは疲れてるから助けて欲しいという愛を求める声だった。だから、そんな自分自身を赦して、子供も赦す。
そして、その根底にある罪悪感や間違いは聖霊に頼んで訂正してもらえばよい。
なので、聖霊を通して罪が赦されていけば、段々軽くなりますね。