自分と他人
私たちはこの肉体と思考と感情を持った「私」が自分であって、他人は自分とは関係がないと思ってますよね。
だから、TVでは連日ワイドショーで誰かが批判されているし、ネットも然り。職場や家庭でも悪口が絶えない訳です。先日もワールドカップのサッカーで川島さんがミスしたら、鬼の首を取ったみたいにめっちゃ叩かれてますね。もし自分が同じ立場に立ったとして、あそこまで叩かれたら、もう立ち直れないくらい落ち込んじゃいそう。かくいう私も心の底ではあのミスがなければなー、と少し思ったり。わかってても言ってる^^;そして、赦す。
私たちは心ってどこにあると思っているでしょう?たぶん、何となく肉体の中、それも胸のあたりにあるかもって。そして、それを各自の肉体が一つずつ所有している。だから、私とあの人の心は別。だからこそ、他人を批判できる。あの人が傷ついていても、私は関係ない。大丈夫。
でも、傷ついたり悲しそうな人を見ると、なんかもやもやする。困っている人には声を掛けたくなる。本当に別々だったら、気にならないはずなのに。
コースによれば本当の私たちとは心であり、しかも一つしかない。それが分裂を繰り返し、分裂したそれぞれの心の部分、それぞれの視点からこの世界を見ていると言われます。そんなこと信じられないかもしれないけど、確かにこの解剖、画像診断メインの現代医学でいくら心というものを探しても見つかってないですね。
それが正しいとすると、どういうことになるか?
心は一つなのだから、(分裂しているだけで)私たちの心は繋がっている。
私もふとした瞬間に自他の区別がわからなくなることがあります。私って誰でしたっけ?という瞬間。私は肉体というのが事実だった(と思っている)のが、本当は私は肉体というのが自分が信じているが故に起きている、つまり超強力なビリーフだとわかります。でも、そのうちまたいつもの状態に戻ります(笑)
話しを戻すと、誰かに悪口を言うとは、つまり他ならぬ自分自身に言っていることになるんですね。
ここで言う悪口は実際に言葉として誰かに発するものだけでなく、単に考えることも含みます。
逆に、誰かを褒めると、自分を褒めたのと一緒になる。
これって結構衝撃的ですよね。
私たちは毎日結構悪口を言ってます。それも無意識に。自然に。
会社でも学校でもTVを見ても、好きな人と嫌いな人がいて、嫌いな人の悪口は全然気にせず言ってます。
「全然知識がねぇくせに、課長やってるよ。」
「ああいうリア充はムリ。」
「あいつ遅刻してきたよ。社会人としてあり得ない。」
これは全部自分に言っていることなんですね。
「十分な知識がないと、私は課長になってはダメ。」
「私はリア充にならない。」
「遅刻するなんて社会人としてあり得ない。私は絶対に遅刻しない。」
こう書くと、結構キツいですよね。
言われたら、苦しくなります。
なので、もしかしたらその苦しみは他者批判から来ているかもしれません。
他人への悪口(思考を含む)は気づいて、赦していきましょう。
でも、批判するあなたももちろん大丈夫。
それが愛から来ていることも知っています。
批判する自分はダメとしか思えない場合、その時は私に「大丈夫」と言わせてください。