聖霊にお願い!!(ACIMと共に)

ACIM(奇跡のコース)をベースとした日々の気づきを綴ります。

患者とセラピスト

今日はACIMのとある勉強会に行ってきました。
その中に職場でのストレスを語る方がいて、会が終わった後もあまりすっきりしていないように見えました。
声を掛けたいという気持ちもありながら、自分のクライアントさんではないのでためらっていたのですが、必要なら会わせてくださいと聖霊にお願いし、別れました。
 
車に乗りこみ、「会わせないで帰すことなんてないよなー」と考えつつ帰り道の路地を走っていると、まさかというかやっぱり出会ったのです。
びっくりしました。これは絶対に話せ!という指令だと思ったので、声を掛けお茶を飲みながらしばしお話ししました。
 
心の仕組みを説明して、他人には自分の罪を投影して見ているだけで、
本当は自分の中のある罪を赦してないから~などいろいろと説明したところ、非常によく理解してくださり、怒りでパンパン、思考がぐるぐるの状態から距離ができ、少しすっきりしてくださいました。
 
そして、感謝と賛辞の言葉をめっちゃいっぱいもらったのですが、問題はここ。
これが素直に受け取れないのです^^;
なので、この出会いがなぜ必要であったのか、自分側の問題がはっきりしました。
まだ、なんだかんだ自己価値が低いのです。だから、受け取れない。
誰かに認めてほしい、すっごい認められている人を見ると攻撃したくなる~とか密かにやっている。赦しきれてない。
だから、実際にすんごく感謝されると「いやいや大したことないです」とか言っちゃうw
結局、「罪がある私は価値があってはいけない」とか信じてるから、それに気づきなさいというサインだったのです。びっくり!
 
そこで、クライアントさんによって癒やされるというコースの言葉を改めて実感しました。
「患者は、セラピストの罪が投影されるスクリーンであり、その罪をセラピストが手放すことを可能にする」
「では、誰がセラピストであり、誰が患者なのだろう。最終的には、誰もがその両方である。癒しを必要としている者は、癒やされなければならない。医者よ、汝自身を癒やしなさい。他に癒やすべき誰がいるというのだろう。そして、他の誰が、癒やされることを必要としているのだろう。セラピストを訪れる患者の一人ひとりが、セラピストに自分自身を癒やす機会を差し出している。それゆえに、患者はセラピストのセラピストである。そして、どのセラピストも、自分のもとへやってくる患者の一人ひとりから、癒やすことを学ばねばならない。そのようにして、セラピストは患者の患者となる」(中央アート出版社刊 奇跡講座 P-VI.6:6, P-VII.1:1-10)
一応、カウンセラーとクライアントという関係になってますが、まさに「患者はセラピストのセラピスト」。
うーん、ごもっとも!いつも癒しの機会を与えてくださって、ありがとうございます。