聖霊にお願い!!(ACIMと共に)

ACIM(奇跡のコース)をベースとした日々の気づきを綴ります。

怒りの目的

2週間程前、怒りのウィークとでも言うべき週で、目にするあらゆる事が気に食わなく思える週でした。子供がした些細な事や妻や両親にイライラするし、それが全然止まらないのです。とにかくすべてにイライラします。とりあえず、聖霊と繰り返し見ることをしていました。

 

すると、目的がわかったのですが、罪悪感を投影したいのです。エゴと一体化している自分は無意識で悪者を仕立て、それに怒り、罪悪感を投影できればなくせるとひそかに信じているのです。これができればすっきりでき、今抱えている不快感や問題から解放されると、深い部分で信じているのです。

 

だから、全然怒らなくても良いところで怒りたいのです。というか、本当は自分が怒るために不快な状況や不快な人を自分が作りだしているのです。ルールを決めて、ちょっと外れた人を見て怒ったり、実際は大したことではないのに些細なことでも自分にすごく脅威を与える人や状況に仕立て上げたかったり。そういう知覚が本当は大好きで、作って、怒り(問題なら気を揉むとかでもよいのですが)、投影することで解決すると延々とやっているのです。この世界は病み、疲れ、傷ついた人たちで溢れています。自分の顔を鏡で見ても疲れていると思います。他の人も同じです。でも、そんなことお構いなしに、ちょっとでも何かあった人を悪い人にでっち上げたいのです。

 

それがわかると、怒りの目的や無益性がよくわかりました。きちんと自分の闇を見ないで、赦すか怒るかという選択にすると、どうしても抑圧することになり、逆に苦しくなると思います。なので、やっぱりlookingということが本当に大事だなと痛感しました。

怒りで罪悪感が解消されるという誤謬を信じていることが見抜ければ、後は自然と聖霊に頼って赦して癒してもらうことしか選択肢がなくなります。見れればマインドまで戻ります。やっぱりこれに尽きるなと思います。本当は何かされたと信じているのに、我慢して、抑圧して、赦しを選択するとかではないと思います。それは苦しいはずです。何もないと見抜くためにはできるだけ素直になって、自分の心を見ていくことがどうしても必要です。

 

「精神療法の機能全体が、最終的には、患者が一つの根本的誤りに対処できるよう助けることにある。その誤りとは『怒りは、自分が真に望むものをもたらしてくれるものであり、攻撃を正当化することにより、自分が保護される』という信念である。これが誤りであるということを彼が認識するその度合いに応じて、彼は真に救われる。」(中央アート出版社刊 奇跡講座 P.II.1.5-6)

 

光源

心が見られていくと、さらに仕組みが実感としてわかっていくようです。

 

女性が横を歩いていく。きれいで幸せそう。

おじさんが横を歩いていく。恐そうだなー。

TVでお金持ちのニュースを見る。うらやましいなー。

 

女性に幸せな人物という映像を当てたのは私。そして、自分は不幸せとしているのも私。

おじさんに恐そうな人という映像を当てたのは私。そして、自分は脅かされる人としているのも私。

お金持ちに幸せそうという映像を当てたのは私。そして、自分は不幸せとしているのも私。

無意識にある私は不幸せ、脅かされる人などの思いが見られないと、投影されて虚像が作られます。でも、実態はありません。私が作っているのです。

だから、女性と結婚してもすぐに不幸せになるし、おじさんに怒っても次にまた恐いひとが現れるし、お金持ちになっても、すぐに不幸せになります。

それは想念によって作り出されているだけなので、実態がないのです。この人と結婚できれば幸せになるとその人を輝かせているのは、その人の人格やステータスではなく、自分の想念です。

逆に、お金を稼いで克服しようなど行動で対処しようとすると、自分のsinを見ないようにし、実態化する方向に行ってしまいます。

こうしたものはエゴを信じることによってできた虚像です。だから、見られれば剥がれていきます。戦うのではなく、改善するのではなく、治療するのではなく、必要なのは単に見るだけです。

自分が誰かや状況を加害者に仕立て、自分を被害者にしている。これをジャッジせずに、罪悪感を抱かずに単に聖霊と見る。見ればよいだけです。

 

この世界の映像を映し出している、人物にコントラストをつけている光源はこの世界にはありません。

イヤな人も、好きな人もいません。いくらイヤな奴を殺しても、また現れます。

好きな人が自分に関心を持たなくなったら、すぐに嫌いになります。

いくらお金を儲けても、今度は失う不安が出ます。

なぜなら、Ideas do not leave their sourceだから。

 

映像の光源は心にあります。心はこの世界にはありません。

聖霊と一緒にsecret sinを見て行くと、段々とマインドに遡ります。

虚像を作り出している源は何か。エゴを見ないことにより保存されているsecret sinです。

 

「自分の外側を探すのはやめなさい。なぜなら、あなたの苦痛はすべて、自分の望むものがどこで見つかるはずかについての自説を曲げずに、それを求めて不毛な探索をしていることに由来しているからである。もしそれがそこにはないとしたらどうだろう。あなたは自分が正しいことと、幸福であることの、どちらを好むだろうか。」(中央アート出版社刊 奇跡講座 T29.VII.1.6-9)

助けなければならない人

癒しをやり始めて、始めのうちは自分より恐い、強い人がいて、それが恐怖を与えてくる気がするので、そこを癒やすということをしていました。

 

しばらく経って片手落ちなことに気づきました(Special love relationshipのパターンが見れてない)。

自分より弱い人、価値がない人、助けなければならない人など、そういう人の存在です。世の中には可哀想な人がいて、助けなければならない。カウンセリングをして、心の仕組みを通して、助けたい。もちろん、助けてと言ってきた人がいたとしたらやればよい。でも、大体は自分の投影です。想念によって、弱い人が自動的に作られ、それがリアルに思えるだけです。

 

「そうした対象を自我は選び出し、それとつながる。そして自分を強めるためでなければ、決してつながることをしない。自我は自分に理解できると思うものと一体感をもち、そこに自分自身を見て、自分と同質なものを共有することにより、自分を増大させようとする。この策略を見誤ってはならない。自我は常に弱めるために共感するのである。そして弱めるとは常に、攻撃することである。共感するということが何を意味するのか、あなたは知らない。だが、次のことについては確信してよい。あなたがただじっと静観し、聖霊があなたを通して関わるに任せるなら、あなたは強さに共感することになり、弱さではなく強さを増すことになる。」(中央アート出版社刊 奇跡講座T-16.I.2:2-7)

 

エゴを選択している私たちは密かに弱いと思う人に共感をすることにより、自分の弱さを強化しています。人の話には「うん、うん」と強く頷く、同意してあげなくちゃ。それが普通、良い人。

それは、他人の同意を得られないといけない自分の弱さを投影して見ているのかもしれない。本当の相手は強いかもしれない。でも、人の心は何もわからない。わかりようがない。でも、密かに禁じている自分の弱さを投影して見ていると、共感により弱い自分を強めることをしてしまう。

本当は他人の同意が得られないといけない自身のなさ、不安をただ強化することになるだけ。同意しない人への恐怖と怒りは温存されたまま。よーく見ると、本当は自分が弱くなることを選択し、強い他人に憤慨することを選んでいることに気づきます。

 

孤独であることを禁じていると、一人でいる人がすごく可哀想に思えます。それを助けられないと、申し訳ない気持ちになります。でも、それは一人でいる人に自分がつけたレッテルであり、ここに「一人で可哀想な人」は実在していません。

 

社会には弱い人、強い人が実在して、その中で自分の順位、立場が決まる。だから、価値を上げないといけない。そういう映像がスクリーンに映りますが、映像の光源は自分の想念だけのようです。

ランプを持つ人

投影はわかり始めると簡単で、要は私が望んだ台詞を他人の口から喋らせているというだけです。(原理はsimple、気づくことはまた別です)

ただ、無意識に沈みすぎて本当は自分の言いたい台詞と思えないので、わかりにくい。

 

例えば、自分は劣っているという信念があり、抑圧すると、他人が勝手に喋ります。

実際に口に出すわけではありません。でも、態度や口調、陰口、目くばせ、空気などで、あたかも言ってくるように思えます。

「抑圧すると」と書いてますが、抑圧しまくっているが故に生まれてきているので、私たちが知っている「現実」の世界はすべて投影、それが自動的に展開されているという感じです。(だから、私たちの思考は全然一貫してません。分裂した心が生む様々な思考がやってきて、あっちへふらふら、こっちへふらふら)

 

ただ、このイヤな信念は本当は私のsecret wishです。本当は私こそが自分は劣っていると思いたいのです。そして、なくしたいとつぶやくのは、顕在意識です。

なぜなら、劣っている=無垢な被害者であり、罪のある他者を作り、怒りたいからです。投影は否定であり、すなわち怒りです。投影しておいて、怒りがないということはあり得ません。だから、無意識ではこれを望んでいます。(何人も私以外に私の心に影響を与えることはできません。私自身が望んだこと以外実現していません)

これがsecret wishの目的です。

 

でも、コースが言うとおり本当の恐怖はこの下にあり、もしも罪が見られてそこに何も存在しなかったらどうなるか?これが最悪の問いです。

何もなかったら、個の私は存在できないのです。

罪を投影し、怒り、自他の区別をつけられれば、個の私は存在できます。ですが、もし罪がなかったら、、、「私」はないのです。他者への怒りがなければどうやって個を維持できるか。

今や、罪より「私」がなくなる方が恐怖です。

 

なので、私たちは罪に惹かれるのです。

潜在意識では私が弱い体を持ち、弱い心で生きたいのです。そうすれば、罪を他人に投影して、温存することで、個の私を保存できるから。

なので、コースには平安への障害が書かれており、罪に惹かれることに気づきなさいと言われます。

 

言い方を変えて繰り返すと、自分への呪い、葬送歌を歌っているのは自分自身であり、それを隠して、他人に投影します。すると、他人が自分へ攻撃してくるように知覚します。次に、その攻撃を防御することによって、自分が歌っている呪い(罪)に気づくことなく保存します。個の自分を守るため、罪を保存するため。今や罪を手放すことは、自分がなくなることを意味するので恐怖です。そうして、罪にかじりついて惨めな王国の国王の座を譲らないでいる。罪の宮殿を守り、Reality(実相)をねじ曲げているのは、私自身の意志。

 

つまり、心の底では私は罪に執着し、神の愛や聖霊を拒んでいるのです。自分がいなくなるから。

だから、素直に神の愛が恐いとイエスに言い、一緒に見て欲しいと助けを求めればよい。

私たちが隠したsecret sinの暗闇を見ようと決意すると、そこにはいつもランプを持った人が待っていてくれます。そして、闇の中を歩く私たちを先導してくれます。私はもはやそれを疑うことができません。This course works so well.

自分より下な人

例えば、勤めていた会社に見切りをつけて、辞めるとします。

先がない、トップが無能、業界的にも先細りだ。そして、自分が思う良い会社に転職するとします。

すると、元いた会社にまだ勤めている人は自然と無能に思える。

そして、これから働く先の会社に勤めている人はキラキラして有能に思える。

 

元の会社の人達は前と変わりません。でも、今やみんな無能な「自分より下な人」に思えます。人は変わりませんが、変わったのは自分の価値観です。「~な会社に居座る奴はアホ」と思ったので、アホに見えます。

そして、自分が思う良い会社で働く人も今までと同じように普通に働いているだけです。でも、今やすごく有能に思えます。変わったのは自分の価値観です。「~な会社で働く人は素敵」と思ったので、素敵に思えます。

 

素敵な人もアホな人もいません。ただ、自分の思いによって、自動的に作られるだけです。大体その下には、劣等感や不安などもっと深い思いがあり、劣等感を埋めようと良い会社で働く。この会社にいても、不安を刺激される気がするなどの思いがあります。

 

いずれにせよ、自分で見えていない、禁じた思いによって、上の人と下の人が作られるだけです。実在していません。その幻想の中で上に行こうと思っても、不可能です。抑圧した劣等感があれば、いくら自分を高めても、それっぽい人に「もっと上の人」という役が自動的に振られます。お金が、地位が、成功がとそれっぽい事柄は見つかりますが、解決できません。それこそがこの世界に私たちが持たせた目的ですね。

劣等感

誰もが持っている劣等感。

そして、基本的に気づかないですね。

ただ、なんとなく年収とか、家族構成とかで自分より優れた人と劣った人がいて、そのなかでそこそこにいられるように努力するという感じです。

 

というのも、本当は自分は人と比べてダメだ、劣っているという思いが無意識にあり、抑圧されています。

たまに、自分より年収が高い人の話しを聞くと、ちょっと苦しくなりますが、すぐに見ないようにします。

つまり、禁じています。

そして、自分の価値を上げるために、スキルを高めたり、勉強したり、お金を増やしたり、安定した企業に勤めたり、カウンセラーという肩書きを得ようとしたり、評判や名声を得たり、成功しようとしたりします。(これは心の次元の話しを肉体の次元で変えようとしているので、変わりません。いつまでたっても自分より優れた人が自分を見下してきます。)

 

問題は自分の社会的な価値ではなく、劣った自分という思いを禁じていることです。抑圧されることで、自動的に投影されます。

劣っている自分を指摘する自分より優れた人が勝手に作られます。同時に、自分より劣っている人も勝手に作られます。両方とも本当は存在していません。なので、汚い格好したおじさんと見下している人が意外と資産家だったりします^^

 

彼らは自分の思い込み、自分の心の中にしかいません。徹頭徹尾、心の投影を見ているだけなので、意味がない。登場人物が現れ、それに良い役と悪い役という配役を振り、主役の自分はその間で苦しんで頑張る。全部自分でやっていることです。

 

とりあえず、配役は自分の思いを禁じることで自動的に作られたものであり、自分の心にしかない、とわかるとちょっと楽になりますね。罪というネガティブな思いの集積体を持って生まれてきているので、デフォルトでこんなもんですね^^その知らないことにした無意識の罪が自動的にバンバン投影されて、密かに配役を振り幻想の中で戦うことがこの世界の目的なので。

抑圧と投影はautomatic

抑圧でも否認でも禁止でもどれでもいいですが、抑圧したものは投影されるというのが心理学的な法則です。
それも自動的に投影される。


なので、自分の容姿にコンプレックスを抱いている人は
他者の目配せ、何気ない一言が自分がブサイクと言ってくるような気がして脅えます。
そして、怒ります。でも、本当は誰も言ってない。
一方で、自分より容姿が劣っている人を発見すると、内心ダメ出ししつつ喜びます。
馬鹿にされる人は実際は存在してないですが、投影することで作られます。


子供ができないことを苦にしている人は、
母親が言う「誰々さんが子供できたって」という一言が「子供ができないあんたは価値がない」と言ってくるように思い、傷つき、怒ります。
そして、書店で見るたまひよの雑誌も、自分を見下してくるような気がします。
でも、本当は誰も見下してない。


否認をすることにより、こういう投影が自動的に起きる訳です。
完全に無意識のうちに自動的に。ポイントは自動的なのです。


コースの説明によれば、tiny mad ideaを深刻に受け止めた瞬間にとんでもない罪悪感を抱き、耐えられないので抑圧して、エゴを作りだし、この世界を創ったということです。
罪悪感は抑圧されています。


ということで、私たちがこの世界で見るものは自動的に決まっているということですね。
この否認された罪悪感の投影、ただし日常のレベルとは比べものにならないくらい大規模なので、不幸だし、イライラする奴は登場するし、金はないし、空気吸わないとすぐ死ぬくらいに欠乏状態にあるし、最終的に肉体は必ず死ぬし、という具合にまあとんでもないわけです。
罪を投影しようと思うと、自分はダメなやつでないといけないし、他人や状況はイライラさせるものに自動的になるのです。
そういう解釈が自動的に起きる世界なのです。つまり「誤創造の地獄」(ACIMでいこう)


とんでもない量の罪悪感が抑圧されていて、世界に投影して見ている、だから解釈するものは悲惨で当り前。
それが自動的に起きる。だって、めちゃめちゃ抑圧されているから。
映写機で映し出されるように、この世界というスクリーンに投影される。だから、シナリオも始めに決まっている。全自動。


あとは出てきたものをもう一回抑圧するか解放するかしかないので、片っ端から赦して聖霊に委ねて解放しちまえってことですね。
そりゃあ、コースのやり方は速いですよねー^^

日常的な信念→否認→投影→知覚もありますが、規模を大きくして考えるとコースの説明がよく腑に落ちます。