聖霊にお願い!!(ACIMと共に)

ACIM(奇跡のコース)をベースとした日々の気づきを綴ります。

「人並み」という偶像

私たちは何となく「人並み」になれれば、満たされ、安心、安全に暮らせるような気がしています。

人並みの年収、会社、結婚、子供などが得られれば、満たされて、安心して暮らせる。

 

しかし、コースでは以下の通り書かれています。

「以前述べた通り、自我は自分が戦っていると知覚していて、それゆえに同盟者を必要としているのだから、自我の友はあなたの一部ではない。戦っていないあなたは兄弟を探すべきであり、あなたの目に入るすべての者たちを兄弟と認識しなければならない。なぜなら、対等な者たちだけに平安があるからである。対等な神の子らは一切を有しているので、競うことはできない。だが、もし彼らが自分も兄弟の誰かを、自分と完全に対等ではないものとして知覚するなら、競うという考えが彼らの心に入り込んだことになる。この考えに対して警戒する必要を過小評価してはならない。なぜなら、あなたの葛藤のすべてはそこから生じるからである。」(奇跡講座 7.III.3.1-5)

 

「人並み」という概念は「人並み(かそれ以上)な人」と「人並み以下の人」を作ります。なので、「人並み以下の人」はいわゆる「負け組」になります。

 つまり、「人並み」(=勝ち組)になろうとする時、同時に負け組も作りだすので、他人との競争が始まります。

兄弟を自分と競う者と見た瞬間に、戦いが生じ、平安は訪れない。もし、平安が欲しければ、夢ではないレベルでの「完全に対等」な者と認識すること。それ以外の比較、差異を認識する限り、自我を選択し、競争が必要になるのだから、決して平安は訪れないというのがコースのメッセージですね。

つまり、平安に生きるために人並み、平均、中流になろうという努力そのものが、本当は勝ち負けを作り、(権力闘争のようにあからさまではないものの、密かに)競争を選択し、平安を選択しない構造になっている

 

本当に「自我は相当なやり手」ですね。自我は外を変えれば得られると言いますが、まさに「探せよ、されど見つけることなかれ」(seek and do not find.)

外にゴールはないですね。